176345cfa0fd174c92134438228cd9d3_s

どうも、ねんごたれです。

ひきこもりで、時間があるのですが、その時間を有効活用できない。

「なんでも、したいことすればいいやん。」

って思われるでしょうが、なぜかしたいことがない。

いや、あるにはあるんですが、それをしようとすると、親から何を言われるのか考えてしまってできなくなる。

もう四半世紀も生きているのに、まだまだ親から独立できていない。経済的にも精神的にも。

どうして、こうなってしまったんだろうか。

まだまだ小学生だと思われている可能性。

逐一行動を把握しようとしてくる。

  • 今日は何があったか。
  • 電話をしていると相手は誰なのか。
  • 遊びに行くなら、誰と、どこへ、何をするか、何時に帰ってくるか。
  • 部屋に勝手に入ってくる。

うーん、小学生のときと変わらないんじゃね。

電話をするときに、親から呼び出しをくらうとそっち優先になる。これもおかしい。電話の内容や相手も確認される。また、部屋のドアは鍵がなく隙間が空いているので、内容は駄々洩れ。

遊びに行くのですら許可がいる。また、5時ぐらいには帰ってきていないと遅いと言われるし、遊びにいったら、「ええ身分やな。」「お前がやらんけん俺がやったんやぞ」とか言われる。

 

これが、20年ぐらい続くとどうなるか。

電話はしないし、遊びにも行かないし、部屋からもでなくなる。

当然、友達は少なくなるし、呼ばれても遊びに行けない。

人と話す機会がほとんどないので、人と話せなくなるし、話せる話題もない。

「学校の休み時間はどうやったん?」

と思われるだろうが、休み時間なんて、その前の授業の復習と、次の授業の準備。あと、お腹が弱いのでトイレに行けば、10分なんて足りない。でもまあ、なんだかんだ喋ってはいたはず。覚えてないが。

これで、よく今でも友達でいてくれるやつがいるから、すごい。

まあ、遊びに行っても働いているやつばっかりだから、働け働け言われるけどね。

 

学校の勉強以外が許されない生活をしてきて、どうやって勉強以外のことをしろと。

こそこそと隠れて他のことをするのにも限界がある。精神衛生上もよろしくない。

ほんま、大人って何なんだろうか。成れるものなのか。

ひきこもりのやつほど心根がやさしい。

自分でいうのもなんだが、ひきこもりの人は心根がやさしく、我を通すことがない。

なぜなら、「他人のためになることをしろ。」と育てられてきたから。

そして、「自分を犠牲にして他人を助けるやつほどえらい」とかいう教育もセットで受けてきている。ボランティアとか、海外の貧困とかに立ち向かうとか、そういうのは素晴らしいという洗脳だ。

どこかで、読んだ言葉が印象的だったので載せておく。

洗脳は、個人がやれば宗教だが、国がやれば教育になる。

だから、自分がいくら消耗しても頑張ってしまう。そう教育を受けてきたから。

確かにそれは、『良さ』かもしれないが、自分が生きていけなくなるなら意味がないだろう。自分ひとりを犠牲にしたところで、ほとんど何も変わらない。

そういうボランティアなどは、『自分が一人でも生きていける』というのが大前提にあることを理解していない。

ボランティアに行って、「ご飯がでない」とかいうのは見当違いも甚だしい。誰かのためにとかは、自分に余裕のある人だけができることだ。そこを間違えてはいけない。

だから、そういうのを強要されたら、『断る』ことが大切だ。

ただ、そういうのはひきこもりには難しい。

『断る』のには勇気がいる。

「相手の機嫌が悪くなるようなことはしない」からだ。「自分のこと」のはついつい棚に上げてしまいがち。なぜならやさしいからだ。

 

この辺の性格はどうやったら、治るんだろうか。そうしないと、社会でやっていけないぜよ。

そんな社会に入らないでも生きて行けるようなものを考えないといけないな。

関連記事 ◆やさしいことしかできない。という弱者。『善人ほど悪い奴はいない』中島義道
行動するのにいちいち許可をとる。

なにをするにしても、いちいち許可をとってしまう。

これがダメだ。

必ず却下される。「ほんまに頭で考えているのだろうか」っていうぐらいあまのじゃく。

それで、だんだん行動しなくなってくる。

すべての行動が却下されるのなら、行動なんてするわけないだろう?

「じゃあ、親に許可をとらんかったらいいやん。」

全くその通りだ。そして事後報告もしない。これが大事。

自分のことは自分で決める。やるかやらないかも自分で決める。

それでいいんだ。

 

これに気付けたのが最近になってからだ。もう、ほんま2か月前ぐらい。

そうして、少しずつだがいろいろやってみている。

ブログを書き始めたのもその一環だ。

ちょっとずつ前向きになっているような気もする。

人のやることにいちいち文句を言われる。

いちいち人のやることを確認したり文句を言ったりするのは良くない。これをやられると、ほんまになんもできなくなる。

こんなエピソードがある。

祖父のお見舞いに車で2時間先の病院に行くことがあった。どこまで来たのか心配になったのでしょう。祖父から「今どのへんな」っていう電話がかかってくる。運転中なので、車をいったん止めて電話に出る。「あと1時間ぐらいでつくで」といって車を発進。また電話がかかってくる。もちろん祖父からだ。内容は同じ。そのあとも何回もかかってくる。当然、到着時間につかない。祖父の機嫌は悪くなる。

このとき祖父は、自分が悪いなんて思っていない。頭にあるのは、「予定通りこなかった」ということだけだ。

同じようなことが、親が運転しているときもあった。当然イライラしている。

ここで思う。

「親はイライラしているが、ぼくに対して同じようなことをしているのに気が付いているのだろうか。」と。

あるとき確認をとってみたことがある。

当然無茶苦茶怒られたが、「そんなことはない。」の一点張り。「次にそんなことがあったら、そのときに言え。」と。

「よし、言質はとったぞ」と満を持してまっていて、いざそのときにいうと「そんなことは覚えていない。」と。「人のせいにするな」と。

ああ、大人ってずるいわ。

こんなことがあってからもう何も親に対して言わないようにしている。

 

最近はごはんを食べるときに「おいしい?」とか聞いてくる。「いける」と返すが全然伝わらない。

ここで、阿波弁を知らない人のために説明するが「いける」とは万能だ。たいていが「大丈夫」という意味なんだが、その意味のほかに「おいしい」とか「上手」とかそういう意味も含まれる。他にも「危険はない」「失敗はしていない」とかもある。

つまり、「いける」さえ使っていればたいてい「いける」わけだ。

それがわかっていないのか、それともわかってて怒っているのか。よくわからない。

ただ、諦めて「おいしい」というと、今度は「ほんまにおいしいんか?」「お前、おいしいしか言葉しらんの?」とか言ってくるからややこしい。

「こんなとこ改善したらいい、とかないの」とか言うから、言うと「文句言うなら自分で作れ」とか言い出す始末。

もう、どないしたらいいのかわからん。そりゃ「いける」しか言えんて。

「文句も言わず黙って食べる。」と育てられてきたのにいったいなんなのだろうか。

親が見返りを求めるようになったらダメだと思うんだよね。そうなってしまったら、もう他人じゃないか。親じゃなくていい。

そうやって親離れするのかもしれないが

【あとがき】親は関係ない。

何をするにしても、親が関係してくるが、自分のことだ。

親はもともと関係ない。

そのことをつねに頭に入れるようにしておかないと、なにもできなくなる。

「親が心配」「親が大事」「親のいうことは何よりも優先される」とかその前に「自分の心配」をするべき。

それに親は自分の将来に責任なんてとってくれない。

自分の子育てが失敗したから面倒を見るとか、そんな親はいない。

自分のことなんだから、自分でしっかり考える。