どうも、ねんごたれです。
自分でいうのもなんですが、ひきこもりって才能の塊だと思うんですよね。普通の人に、「何年も家から出ない」なんて強制できるわけがない。ある種の拷問ですよ。
でもそれを苦とも思わず受け入れる。才能以外のなにものでもないと思うわけです。だったら、その才能を生かしたらいいんじゃない?ということでブログです。
ひきこもりにブログがおすすめな理由
ひきこもりには膨大な時間がある。
ひきこもりって暇ですよね。それで、本を読んだりゲームをしたりして時間をつぶして寝るわけです。それを繰り返す。気がつけば何年か経ってる。
それってすごくもったいなくないですか。
消費するだけ消費している。何も生み出さない。
ぼくは、ひきこもり始めて4年、大学時代をいれると8年になりますが、すごく無駄だったような気がするわけです。その8年の間に考えたことは本の十冊や二十冊どころじゃない。得た経験や使ったもの、食べたもの、行った店、見た景色。それを全部形にしていれば、今頃、ブログである程度の収入を得ていたはずだと。
だったら、今からでも書こうじゃないかということで、ブログを書き始めたわけです。幸いにも時間はたくさんある。普通の人が仕事をしながら書くよりかはたくさんの時間をかけることができるわけです。
「時給に換算すると安すぎるんじゃないかって?」いやいや、もともと収入が0で、これからもどうせ0なのだから、時給なんて概念いらないでしょう?。時給がどうだかいう人は働けばいいだけですから。
ひきこもりはブログを書くことに向いている。
吉本隆明さんの著作『ひきこもれ』にはこう書いてあります。
あなたは、明るくて社交的ではないかわりに、考えること、感じて自分で内密にふくらませることに関しては、人より余計にやっているのです。それは、毎日毎日、価値を生んでいるということなのです。
つまり、同じ経験をしたとしても、普通の人(外に出ている人)よりも考えているし、感じていることが多いということ。ならば、その長所を存分に発揮できる場があれば、やっていけるんじゃないかなと思うわけです。
話が上手くなくてもいい
ひきこもりって、話をするのが苦手なんですよね。でも、考えることは人よりしているわけです。普通の人が考えもつかないようなことを考えているかもしれない。でも、本当に考えているのかなんて、傍から見たところでわからないんですよね。考えなんて見えないし。それで、意思疎通ができなくてますますひきこもりになる。人に言われたことを鵜呑みにして、「自分てなんも考えてないんだ。」とか自己否定し始めてしまうわけです。自分でも考えが見えないから、そう思ってしまうだけで、実は「考えてないんじゃなくて、言葉になってないだけ」ということに気が付いてないんですよね。
おいしいものを食べたときは、「おいしい。」と考えているだけじゃなくて、いろんなことを感じているはずなんですよ。苦いとか、甘いとか、微妙な味の変化を感じ取っている。でも、それって言葉で表せないんですよね。情報が多すぎて、言葉で処理しきれない。なので「おいしい。」としか言えないんですが、そうすると、相手には「おいしい。」としか伝わらない。この辺りがひきこもりのひきこもりたる所以だと思ってます。
そのときに「もっと他にいうことはないの。」とか言われて、一つ一つ言葉にしてしまうと今度はへそを曲げる。いったい、なんで機嫌が悪いのかわからない。まあ、ここでの正解は、「おいしい。」の後に味じゃなくて、作ってもらったのなら「上手になったね。」とか違う部分をほめるべきなんでしょうが、そんなん、ぱっと思いつくわけがない。そういう、レスポンスの速さとセンスが問われるのは到底無理なわけです。だから、会話って苦手なんですよ。
これが、文章を書くならばどうか。
時間をいくらでもかけられるというのはでかい。ひきこもりには、そんなこと苦痛でもなんでもない。そして何より、思ったことを全部書いても、誰も文句をいわないところがいい。むしろ、書けたほうが読者にとっていいだろう。あとあと、訂正できるのもいいよね。
とするならば、書かない理由の方がなくない?
ブログを書くのが下手でもいい
初めから、上手に書くことなんてできません。
ぼくも、今でこそだいぶレベルが上がってきたような気がしてますが、はじめから書けたわけではないです。とりあえずは書きやすい旅の経験を日記のように書きました。
そうやって、まずは書いてみる。で、少し経って書いたやつを読んでみると、「ここはこんなことを付けたしたほうがわかりやすいんじゃないか。」「なんか、ちょっと見にくいな。」「ここは、もっと上手に表現できるな。」とか思いつくようになるんですよ。すごく不思議なんですが、知らない間に書く経験値が溜まって、少しずつレベルアップしてるみたいです。だから、心配しなくていいんです。まず書きましょう。
書くことで、メリットもあります。頭の中のことを書き出すので、覚えてなくてもいいようになる。イケダハヤトさんが『武器として書く技術』で、ブログのことを「外づけハードディスク」というふうに表現していますが、まさに我が意を得たりです。
【脳の「外づけハードディスク」を持とう】の箇所を引用。
脳に記憶するのは「この本にはこういうことが書いてあった」という情報のみにとどめ、細かい内容はブログに書き残す。大枠の情報は脳のメモリーに蓄積し、詳細な情報はブログという外部ストレージに記憶し、必要に応じて引き出すようにする。これが21世紀の脳みその使い方です。
いくら細かいことまで考えたとしても、そんなの忘れてしまうわけです。とすれば、せっかく考えたのに意味が無くなってしまう。「価値」を生み出したのに、それを捨ててしまっているということ。もったいない。なら、ちゃんと価値のある形にしたほうがよくないですか。意外とすごいことを思いついているかもしれませんよ。
ほかにも、こんなことも書かれてます。
表現することは自分の癒しでもあり、それを見ている鑑賞者にとっても癒しとして機能するということです。
自分の頭の中に置いていればつらいだけのことでも、ブログに書けば少し癒されるし、それを見た人も癒される。そこから、収益がでれば、一石三鳥です。書かなければつらいだけのことが、書けばメリットになる。また、それを見て解決案を出してくれる人が出てくるかもしれない。いいことばかりじゃないだろうか。
もちろん、いらないことを言ってくる人が出てくるかもしれないが、それは有名になってからだと思うんです。初めは気にする必要はないでしょう。それほど見られているわけでもないし。このブログだって一日4人見られたら多いぐらいです。
過程や方法など、気にしない。
ブログってどうやって書けばいいんだろうかとか、そんなことは今の書き始めた段階では気にしたらダメです。目的を勘違いしてはいけません。目的はなんだったか。『消えていく自分の中の価値がもったいないから書く。』です。収益性とか見やすさとかはそのあとです。一刻も早く、価値を保存するべきだ。
「ブログに書かずにメモを取ればいいじゃないか。」なんて思うかもしれないが、メモをとれる量だと思いますか?ひきこもりをなめてはいけません。本、数十冊分ですよ。手で紙に書くよりもブログに書くべきです。メモは本だったら、一文書いて、何ページに書いてあったかぐらいのものです。
で、ブログを書いているとよく脱線するわけですよ。1記事1テーマなんて無理なんです。頭の中はそんなふうに整然としてない。途中で、「これは脱線したな。やっちまった。」とよく思います。ではどうするか。『コピー&ペースト』で新しい記事に下書き保存しておくんです。こうしておけば、長々と書いた文章を消さずに置いておける。
書けば書くほど、書くことが増えていくという謎現象。でも、ブログにとっては好循環。終着点が見えないですが、それでいいんじゃないでしょうかね。見た目は汚くなるでしょうが、そのうち、「こんなふうに書いたら、あとから見やすいな。」とか思いつくかもしれません。そうやって、自分だけのやり方を見つけていけば、それがブログの個性となっていいと思います。
「ゴミ記事はなんぼ書いてもゴミ。」というのをどこかで見ましたが、それは違うと思います。まずは、ネット上に自分の考えをためる。収益性を求めるのなら、その書いたものの中から、わかりやすくまとめたブログを新たに作ればいいだけ。
【うえきの法則】という漫画で『ゴミを木に変える能力』を持った主人公がいますが、彼はゴミがないと力が使えないんです。ゴミ0作戦のネタはおもしろい。そんな、主人公ですが、自分の木片をゴミと認識することでさらに強くなります。【ゴミ→木→ゴミ→木】となり、【木→木→木】になった。
そんなふうに考えてみると、ブログを書く人たちは、『ゴミを記事に変える能力』の持ち主かもしれないですね。【ゴミ→記事】が【ゴミ→記事→ゴミ→記事】となり【記事→記事→記事】になる。
まずは、どんどんゴミを増やしていきましょう。
【あとがき】ゴミでもいいから量産する。

どうでしたか。
「とりあえず、書いてみよう。」と思ったら、書いたほうがいいですよ。書き始めれば、どんどん書きたくなります。この記事を書いている最中にも、脱線していろいろ違うことを書いてしまいました。
そのうち、まとめてみようと思います。
それではまた。
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